星見る囚人

楽しい世界にむけ脱獄進行中

シン・エヴァネタバレ感想ー現実のなかで生きていく

タイトル通り、がっつりネタバレしながら取り留めもなく見た直後の感想を書いてます。

伏線回収とかはあまり掘らずに、「心の物語」としてみたエヴァへの、個人的な解釈だけです。あしからず。

 

 


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「シン・エヴァ」は、「まごころ」をはじめ全てのエヴァを補完する結末になった。全員がちゃんと救われるハッピーエンド。

 

新劇が始まってからずっと思っていた。「新劇も根本的なところではTV版や旧劇と同じことを言いたいんじゃないだろうか?」結末を見た今、やっぱりそうか、と実感している。(あくまで私の解釈上で、という意味)

私のなかで、「エヴァンゲリオン」という物語は、「現実を生きていくということ」をかなり強く訴えかけてくるものだと解釈している。それは鼓舞であり、決意であり、祈りでもあり…。

「セカイの〜」や「まごころ」を見たとき、「現実を生きていく力(世界や自分への希望)を、自分のなかに見出して選び取ってほしい」そういうメッセージを私はエヴァから受け取った。だから「おめでとうエンド」も「気持ち悪いエンド」も、すんなりと受け入れた。むしろ好意的にさえ見ているし、私自身の現実世界や他者に対するものの見方にかなり影響しているとも思う。

だから、というわけでもないけど、なんとなく、新劇の結末も現実へ繋がるのではと思っていた。そして実際、最後には宇部の景色のなかにシンジとマリが走り出していった。やっぱりそうだよね、と安堵のような納得感がある。

現実の世界に対して、希望の持てる終わりだった。

 

それぞれのキャラについて

挙げるとキリがないかもしれないけれど、思うままにそれぞれに対して思うことを書いてみる。

 

アスカ

個人的にMVPをあげたい。本当にここまでよくがんばってきたよね…。幸せにね。ケンスケも、頼むよ。

 


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シンジの世話をあれこれと焼いて、「メンタル弱すぎ」と吐き出したあたりで、もう好きだった気持ちにふんぎりがついたんだろうなと思う。だから「好きだった」と伝えられるようになったんだろうなって。

式波アスカは、シンジと離れてマリやケンスケと縁を深めていって、やっと本当に幸せになれたような気がする。シンジを前にすると、好きだけど、それと同じくらい自己投影してしまって自己嫌悪も募っていただろうから。

 

パペットちゃんのなかからケンスケが出てくる場面は象徴的だ。式波アスカを丸ごと受け入れてくれる存在は、これまではパペット(虚構)だったけど、これからはケンスケ(現実)なんだ、ということに泣けたよ…。式波も惣流(オリジナル)も、それをずっとずっと求めていたんだもんね。

アスカ救済の場面のなかに、「まごころ」で浜辺に打ち上げられた(惣流?)アスカも出てきたけど、それがすべてのアスカを救ったという描写なんだと思ってる。

これでやっとすべてのアスカが報われたよね。本当によかった。

 

これは余談だけど、ケンスケのメンタルケアのレベルが高くて驚いた。「生きててくれて嬉しいよ」とか「ここにいてもいいんだぞ」とか「心配しすぎはお互い良くない」とか、距離感が抜群に良い。あれだけ懐の深いケンスケならアスカが懐くのも当然だよなあとも思った。

たぶんあの抜群の距離感は、アスカと過ごしてきたなかで身につけたものでもあるんだろうな。めっちゃいいやつになったね、ケンスケ。

ふたりで幸せにね…!

 

ミドリとサクラ

「ふつうのひと」としての彼女たちの存在は、より現実を意識させる。

大災厄を経て多くを失い、一方でそれによって救われた部分もあり、その元凶の人物が目の前にいたら、そして再び同じことをしようとしていたら、当然ああすると思う。

 

シンジやミサトたちにとっては目を見て頷けば察せられても、「ふつうのひと」にとってはそうではない。世界を変えてしまう選択をするなら、「ふつうのひと」からのああした声を受け止めなくてはならないだろう。カタルシスと引き換えに、そういう「ふつうのひと」への責任を負う覚悟があってこそ、セカイ系の物語は成り立つと思う。

 

結果シンジは初号機に乗る決断をしたわけだが、「明日生きることだけを考えよ」と言ったミドリと泣き崩れるサクラの間に漂う諦観と葛藤を、現実を生きていく私は覚えておかなくてはなと改めて思った。誰かにそういう思いをさせるかもしれないし、私がそういう立場になるかもしれないのだから。

 

ミサト

母親になっていたのはちょっと驚いた。でも、やっぱりミサトさんはミサトさんだったね。

「:破」から「:Q」で態度が一変してるように見えていたけれど、「子どもに責任を負わせたくない」「大人として責任を負わなくては」という意志によるものだとちゃんと説明されてて安心した。「行きなさい!→何もしないで」がイジられがちだけど、それもなくなるといいな…。

 

シンジを庇って「私が責任を取るということです」って背筋を伸ばして、顔を上げて言ったその晴れやかな表情、ミサトさんも大人になったんだなと感じた。

TV版~旧劇のミサトさんは、彼女自身が言うように、母親(シンジにとっての守ってくれる大人)にはなれなかった。ミサトさん自身の孤独と病みを癒せないまま、自分の弱さを受け入れられていなかった。だから、あのときは大人になろうともがいているところだったと思う。
そのミサトさんが、心身ともに大人になっていて、本当にかっこよかった。


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加持さんと同じように、後に続く者に託して自分との決着をつけられたのもよかったよね。ミサトさんはずっとそうしたかっただろうから。息子のリョウジを思っての最期の言葉、すごくあたたかくてうるっときた。

大丈夫よミサトさん、あなたは十分やってきた。迷ったり失敗したりして、その分だけ成長してきたミサトさんの大人の姿、みんな受け継いでいくよ、きっと。

 

レイとカヲル

今作は旧劇の結末を補完したと冒頭で言ったが、そのひとつはレイとカヲルの救済だと思う。旧劇ではシンジを導いてくれたけれど、彼ら自身の救済には至らなかったから。

 

レイと別レイ(黒波)、どちらもよかった。特に黒波は「初期ロット、器」としてではなく「綾波」としてかけがえのない経験をして逝けた。ヒトとしての営みをより深く味わえた点では、レイにもない経験だっただろう。

 


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レイに関しても、はじめ「私は残る」と言っていたのが彼女らしい。エヴァを象徴する一人だから、離れがたかったのかな。
エヴァのない世界では 、レイは存在しないかもしれない。それでも、安心したような笑顔を見せたのは、生きていくことの苦しみと喜びの両方を知れたからなのかな。あの笑顔が、エヴァのいない「現実」への信頼のように思えた。

 

ずっと導き手を演じていたカヲルも、本当の自分の望みに気づけてよかった。


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ずっとずっと、シンジのためにいくつもの世界を巡ってきたカヲル。私のなかでは、ループしてるというより、世界線から別の世界線へひとり渡り歩いてきてるイメージ。
時に甘やかし、時に厳しい現実を突きつけ、シンジのために身も心も砕いてきた。

そんな彼が「シンジを幸せにすることで、自分が幸せになりたかった」という自己投影的な他者依存を自覚し、現実での幸せを探しにいく…。

誰よりも「シンジくんのため」と強調してきた存在が、円環の外に「自分の幸せのため」の道を選んだということ自体に、すごく希望を感じる。

 

シンジ

旧劇よりも大人になっていくところが丁寧に描かれていて、もう…うまく言葉にできないけれど、じんわりとあたたかい気持ちに包まれてる。

 

アスカや黒波、トウジやケンスケと現実世界で過ごすなかで、少しずつメンタルが回復していく…その過程で「大人」になっていくのを感じた。心象世界(イマジナリー)ではなく、現実でこそひとは成長する。そんな当たり前に、何度も気付かされる。

だから、あの第三村での描写はシンエヴァにおいて必ず入れなくてはならないシーンだったんだろうと思う。

 


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そうやって大人になれたからこそ、今作のイマジナリー世界では、自身も含めた皆の心を紐解く導き手になった。アスカやレイやカヲル、そしてゲンドウを送り出す側になっていた。そういう彼なら、全てのエヴァに別れを告げて、「エヴァのない世界」を選ぶのも必然。

旧劇でも「他者のいる現実」という世界(カヲル曰く「相互的世界」)を選んだけれど、今作の「エヴァのない現実」という選択は、さらに私たちの現実に寄ったものになった。

 

マリという存在

アスカとケンスケもそうだが、「なぜ急にシンジとマリが?」という声もある。私たちの現実世界では伏線やご都合展開もなく、些細なことで縁が繋がる。思ってもみなかったひとと人生をともにすることだってふつうにある。シンジたちも、そういう世界で生きていく。その表れが、最後のマリとの描写かな、と私は思った。

 

「マリ=モヨコ先生説」もよく唱えられている。そういう面も確かにあると私も思うが、それは庵野秀明という作家への解釈を深めるものであって、エヴァを理解・解釈するのとは別のアプローチだと感じる。

 

チョーカーをマリが外したのも、シンジや庵野監督自身がエヴァという呪縛や自己矛盾から解放される形になった。

旧劇も補完した、美しい結末だ。

 

ただ、ひとつだけ残念に感じたこともある。マリとの戯れで、「胸の大きなお姉さん」と言っていたことだ。マリが自分のことをそう言ったのも、ノイズに感じてしまった。

エロスを全て嫌悪してるわけではない。アスカの全裸やプラグスーツが破れてる様には作劇上の意味があって、絵的にもストーリーと調和していたと思う。けれど、マリとシンジのそれは、悪い意味で「あの頃のノリ」的な苦味だと感じた。

ストーリー全体が良かったぶん、私にとってはそうしたノイズが残念だった。

 

ゲンドウ

旧劇の補完、で言うと最も補完されたのがゲンドウの心象だろう。やっとユイさんと一緒に逝けてよかったね。

まさかまさかの説教電車で、さらに息子にど正論かまされるとは。でも世界に対しての行いを考えれば、まあそのくらいは、ね。

 

幼少期から青年期、ユイを失いここに至るまでがシリーズ内で最も丁寧に詳しく描かれた。初めからひとりである孤独より、幸せを見つけ失ってからの孤独のほうが堪え難いのはよくわかる。だから余計に、シンジと向き合うのが怖かったのかもな。

やっとシンジを抱き締めたところは、特にじんときた。旧劇でもユイに「あの子(シンジ)が怖いのね」と言われて「俺がそばにいても傷つけるだけだ」と答え、最期は「すまなかったな、シンジ」と言っていた。ユイに会いたいという願いも本当だけど、恐れを超えてシンジにこそ愛を伝えたかったというのが本当の願いだったんだろう。

ユイを抱き締めて迎えた最期。13号機の対の腕は、ユイへの愛と自らへの罰のためにあったのだと思う。世界にしたことの責任を取らなくてはならないから。たぶん、最初からそのつもりだった。

 

ゲンドウは庵野監督自身が最も色濃く投影された存在のひとりだと勝手に思っているから、こういう形で心の決着がついて、本当に良かったなと感じてる。

これで庵野監督も、エヴァの呪縛からやっと解き放たれるんじゃないだろうか。

 

シン・エヴァが描く「現実」

旧劇もシンも、やり方は違えど、「現実」をかなり重要なテーマとして描いている。シンジが作中世界での現実を選び、観ている我々にも現実に向かうよう時間をかけて背中を押してくれていると思う。

それぞれを詳しく振り返ってみよう。

 

作中世界の「現実」

今作では、所謂アニメの「日常」とは違う、現実の(リアルな)日常が描かれた。まさかエヴァにおいて田植えを見ることになるなんて、誰が予想しただろう。シンエヴァで描かれた日常は、土のにおいがする現実だった。

あの第三村の日常に、シンエヴァの大切なことがたくさん詰まっているように思う。

 


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かつてラピュタでシータは「ひとは土を離れては生きられない」と言った。第三村での暮らしが前時代的だったことも、同じ理由だろうと思う。

宮崎駿監督も当時は言われたことだが、これは別に庵野秀明監督がエコロジストだということではない。生活を自らの手で為していくことや、他人との相互の関わりのある世界を愛してるから、ああいう生活を描くんじゃないだろうか。

だから加持さんも、あの高度な科学に覆われていた第三新東京市でスイカを作っていたんだと思う。

 

黒波やシンジへの感想でも述べたが、パイロット3人が第三村という現実のなかで回復・成長していくことは、シンエヴァという作品の要だ。

結論は旧劇とほとんど同じでも、この村での日常で「他人と現実で生きていく」ことの意味が補完されたと思う。

 

メタ的な「現実」

シリーズを通して描かれている心象世界(イマジナリー)は、観客としての我々を現実へと向かわせるものでもあると、私は解釈している。

 

TV版の「おめでとうエンド」においても、台本が映し出されたりシンジが撮影スタジオのようなところに座っていたりしたが、今作ではそうした描写がよりはっきりと描かれた。マイナス宇宙内の表現は特にそれが顕著だ。
背景の幕、板。撮影スタジオの天井、ライト、カメラ、シャッター。絵コンテ。どれも「『エヴァンゲリオン』は作られた世界」であることを如実に意識させてくる。

これらが示すのは、「まごころ」で言うところの「夢は現実のつづき、現実は夢の終わり」。つまり、ある種の「現実の埋め合わせ」を終えて、現実へと目を向けるよう促している、ということではないか。
その点では、シンもTVシリーズも旧劇も、言いたいことは同じだと私は思う。

 

TV~旧劇では、「現実は厳しく、他人と生きるとは傷つくことである」という意識がメッセージの根底にあるように見えた。当時の制作陣に向けられた言葉の数々を思えば、そういう世界観が作品にも影響していたとしても不思議ではない。それでも他人と現実を生きていく、という選択を尊いものだと今でも思う。


シンでの現実のイメージは、もう少し優しくあたたかいものに変わった印象がある。それはやっぱり、第三村の描写があるからこそ見えてくる変化だ。その変化も嬉しく思うし、旧劇と同じくらいシン・エヴァを好きだなと思う。

 

エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)という作品の結論はともに「現実へ帰れ」ではあるだろう。けれど、シンはあたたかく背を押すような、しっかりと手を握って駆け出すような、そんな伝え方になっているように感じた。

 

「エヴァ」は心の物語

「シン・エヴァ」の結末から、やっぱり「現実のなかで生きていくんだ」というメッセージを私は受け取った。それ自体は旧劇と同じだけれど、より丁寧に描かれたそれを、今このときに受け取れてよかった。

旧劇を補完して、みんなが幸せになる世界を見られて、心から嬉しく思う。

 

私のなかで、「エヴァンゲリオン」という物語は、アニメで表現された文学作品、庵野監督の私小説だと思っている。

エヴァのキャラはそれぞれ見た目も性別も年齢も違うけれど、きっとみんな庵野監督のなかにある性格。キャラたちの対話は、庵野監督自身の心の確認作業。今作でみんなが対話を通して救われていったのは、エヴァ(虚構)と現実の両方を愛するが故に苦しんだ監督自身の自己矛盾の解消にもなったと思う。

世界と人間を愛する庵野秀明監督らしい結末だ。

 

心(魂)の輪郭を確かめるようなこの物語に、どうしても私は惹かれる。私も確かめたいのだ。鎧や仮面を剥いだ、本当の自分の心の形を。そこに希望が残っている、ということを。

 

 

生きているうちにこういう作品に出会えて、その終わりを見届けられて、本当に本当によかった。

これでよかったんだ。エヴァンゲリオンという物語の最後に辿り着いた結末が、「エヴァが存在しない現実」で。

 

ありがとう。さよなら。

この現実を、他人と生きていくよ。

ありがとう。