星見る囚人

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幽波紋使いの精神分析【6部】

今回はジョジョの奇妙な冒険6部「ストーンオーシャン」に登場するキャラの精神を、スタンド能力から精神分析(妄想)してみようと思います。

 

なお、引用している画像は、主体となる私の文章に対して従として引用するものです。

 

 

スタンドとは

目に見えない能力を描き出そうとして生み出されたスタンドというシステム。ジョジョにおいて、「スタンドとは、精神が作り出すパワーあるヴィジョン」だと定義されています。 当然ながら、スタンドには本人の精神性が表れる…それは、「可視化された精神」ととらえられるのではないでしょうか。

スタンドの能力は、「まどかマギカ」の魔法少女としての能力と似ていると感じています。 まどマギでは、願ったことを象徴するような魔法能力を得ます。「怪我を直したい」と願えば治癒能力、「人を繋ぎとめたい」と願えば鎖の能力、「初めからやり直したい」と願えば時を戻す能力、といったように。

つまり、能力がそのひとの本質的な願いや考え方を象徴しているということ。これはジョジョのスタンドでも同じかなと思っています。

ジョジョ6部のキャラたちの精神分析

スタンド能力が象徴する精神。それを考えることで、彼女ら彼らの存在のリアリティを高め、もっともっと6部を楽しむことができるんじゃあないかと思います。

なお、「精神分析」とは言っても素人の妄想です。私は精神科医でも心理学者でもありません。素人の妄想であることを忘れないでください。必要な場合は注釈をつけて正確に伝えるよう心がけていますが、不適切な説明があればご指摘いただけると助かります。

空条徐倫の場合

徐倫には糸のスタンド「ストーンフリー」が発現しました。糸状態ではか細く弱いものの遠くまで届き、束ねれば強力なパワーを発揮するスタンドです。

徐倫が車の窃盗で勾留されたときに、別の家族に説明をする精神科医らしき人物が以下のように言う場面があります。

 

(『ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーンオーシャン「父・空条承太郎 娘・空条徐倫」より引用)

「人を好きになろうと努力する」「愛情は人一倍強い」これが徐倫の精神を表した言葉であることは言うまでもありません。

糸が象徴するのは「他人との繋がり」であるように思えます。 (なんとなく「他人と繋がりたい」と思っていた花京院を彷彿とさせますよね。徐倫を承花の子と見なすような解釈がありますが、近い精神性という意味ではわからんでもないなと思います。)

徐倫の精神性の本質とは、「繋がり(絆や信頼感)が確かに感じるほどタフになる」と言えると解釈しました。FFの言葉を借りれば、「"良い思い出がたくさんある"ことで強くなる」という感じですね。
自らの身を削ってつくるスタンドという性質は、徐倫の他人に対する愛情深さの表れのように思います。自己犠牲的なヒロイズムも感じなくはないですが、「自分のことは自分で守る」というような当事者性の表れだと解釈しました。

承太郎の真意を実感をもって理解してからの彼女は、プッチと対峙し直接肉弾戦となっても「まずい!」と言わせるほどパワーで圧倒していました。それはやはり、経験値を積んだということに加えて、父親の愛を確かなものとして感じられるようになったからでしょう。

彼女がひとを信じて愛することを諦めずにいたことに、とてつもない強さと他人への愛を感じます。

 

エルメェス・コステロの場合

エルメェスのスタンド「キッス」で考えれば、その能力は「解離と統合」によく似ていると感じます。

参考:解離症状について

解離性同一症 / 解離性同一性障害 | e-ヘルスネット(厚生労働省)

人格統合について

解離性同一性障害の症状と治療相談

 

シールを貼ったものを2つに増やし、シールを剥がすと破壊を伴いながらもとの1つに戻る。増える過程が解離、シールを剥がすことは統合、というイメージです。戻る際に(心的)ダメージを受けるという点も人格統合においてはよく見られる現象と言われています。

(『ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーンオーシャン「愛と復讐のキッス その②」より引用)

彼女の精神は、姉が亡くなったときに(軽度ではあるでしょうが)本来の人格と無感情あるいは怒りを主体とする人格とに解離し、スタンド能力を得たことによって統合が可能となったのだと私は解釈しました。
復讐を果たすまでのエルメェスは、離人症的な感覚があったのではないかと思います。初犯ではないとは言え、強盗で重刑務所行きになるということは、かなりの犯行をはたらいたということ。その時のエルメェスの心境はどんなものだったのでしょう。復讐のためならと躊躇うことはなかっただろうと思うのですが、その躊躇いのなさは、「他人を観察しているような(自分のことではないような)感覚」だったからできたことかもしれないなとも思うのです。

統合可能になったのなら、能力が消えてもおかしくありません。しかしそうならなかったのは、完全に一つの人格として統合されたのではなく、解離した人格ともとの人格とが共生関係になったからなのかなと思っています。
だから能力が消えることもなく、かと言って復讐を目指していた頃のように徐倫と距離を取ろうとするでもない、健全な精神状態が保たれるようになったのではないか、と。

それだけの傷を抱えていたエルメェスが最後までついてきてくれたこと、本当に尊敬します。

 

エルメェスの復讐ついてはこちらの記事でさらに詳しく感想書いてます。

www.prisoner-lookinstars.com

 

ナルシソ・アナスイの場合

「内側に入ってバラバラにする」という能力であるダイバー・ダウン。これが象徴するのは、アナスイの「他人を理解したいという欲求」だと考えます。
幼い頃、機械を分解したのは「中身がどうなっているのか知りたかったから」。機械の場合は分解するという方法で、知りたいという欲求を満たすことができます。そうやって成功体験を積んできたわけです。そして、人間も同じようにすれば理解できると考えたのでしょう。「人間も内側から中身を見れば、きっと理解できるだろう」と。

恋人の浮気現場に遭遇して犯行に及んだ動機として、「ふたりが二度とくっつかないように」と説明されていましたが、その時に「なんでこんなことをするんだ、理解できない、なぜだ」とも思ったはずです。それを知るためにバラバラにした。
そして、おそらく、アナスイは能力が発現してもなお、他人を理解できなかった(共感して納得することができなかった)と思われます。しかし、それはアナスイの精神が異常ということではなく、そういうパーソナリティだと考えて良いでしょう。実際、精神鑑定でも正常でした。

 (『ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーンオーシャン「その名はアナスイ」より引用)

また、緑色の赤ん坊の処遇を巡って争ったとき、FFに対して侮辱的な発言をしていますが、これは彼のコンプレックスを刺激したからです。
「たかがプランクトン(分解によって容易に理解可能と予測される存在)」であるFFが、ハグの意味や文脈を理解していたり徐倫と同意見な様子だったりすることは、「理解できない」アナスイにとっては非常に癇に障ることであるはず。だからそのあてつけに、緑色の赤ん坊を指してわざと侮蔑的な言葉を使ったのだと思います。
「そりゃあたしのことか?」とFFが聞いてますが、もちろん、そうです。そしてそれをFFが理解しているのがまたさらに腹立たしいから「うるさい!」としか言い返せないのです。

徐倫の集中力に惹かれた、という描写がありますが、徐倫に共感していたわけではないのでは、と思います。ただ、徐倫の精神は共感できないけれどその言動に惹かれるものがあったということなのだろうと推測します。
アナスイにとって、「分解して理解できる(人間に対しては一度も成功していない)」ことよりも「わからないけど惹かれる(今確かに魅力を感じている)」ことのほうが実感として信じられる、ということでしょうね。 そういうパーソナリティを持つ人物の「共感はできないけれど愛している」は非常に真実味があって、個人的に信頼度高めの愛だと感じます。

徐倫たちと過ごしていくなかで、アナスイの反社会的とも言える倫理観がかなり緩和されているように見えます。それは、ダイバー・ダウンを介して手っ取り早く相手を知るのではなく、徐倫たちの言動に繰り返し接することで尊重を覚えたからだと私は解釈しました。緑色の赤ちゃんの処遇の了解や結婚の許しを請うところはそれがよく表れているところです。
徐倫に出会う前のアナスイなら、そんなことは思いつきもしなかったんじゃあないでしょうか。

 

エンリコ・プッチの場合

ほとんど自立型スタンドのように見えるホワイトスネイクですが、「わたしに向かって得意顔に」などの言動にプッチの性格が表れていると感じます。
「わたしを押し上げろ」「おまえごときうすっぺらな藁の家」など、聖職者として人々を幸せに導く立場でありながら、内心では他人を下に見ているのがよくわかります。

他人の魂を奪って永久に保存でき、他人に与えることもできる能力。それは、「他人をわかろうとする努力なしに相手の心の内を手に入れたい」ということと、「神が慈悲や試練をひとに与えるがごとく、運命をコントロールしたい」という精神の表れだと私は解釈しました。運命をコントロールしたいという願いがあったために、メイド・イン・ヘブンの発現にも至ったのだろうと思います。
この二つは、プッチ自身のセリフやWSの言葉の随所に表れていました。 FFに対して「知性と能力を与えてやったのはこの私だ!」と言っているところなんかは、まさに「神のごとき」振る舞いだと思います。
なお、プッチの言う「知性」とFFの言う「知性」はこのとき意味が異なっているので、「知性」を「与えてやった」とは言えないと思っていますが、これはまた別の記事でまとめる予定です。

緑色の赤ちゃんについての言及では、「私のものになった」「手に入れる」といった言葉を繰り返し使っています。ここに、DIOに対するプッチの本音が見えるような気がするのです。
赤ちゃん=DIOではないですが、プッチは赤ちゃんを見て「DIO、君を目覚めさせ」と言っていることから、彼本人はほとんど同一視しているように思います。
プッチがDIOに友情を感じていたのは本当だとは思いますが、同時にDIOを「手に入れたい」と思ってもいたんだろうと解釈していました。能力が欲しかったわけではなく、それこそ、神のようなDIOに「自分のことを『神のように愛して』ほしかった」と言ってもいいかもしれません

プッチにはそういう、他者に自己投影するところが垣間見えます。
妹の死に際して、プッチは「呪われるべきは私だ」と言っていました。ウェザーと対峙したときには「お前は生まれた時から呪われていた」と言っています。呪われていると感じているのはプッチ自身です。

(『ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーンオーシャン「ヘビー・ウェザーその⑪」)

プッチは、相手の中に常に自分を見ている。他者のことをちゃんと見ようとしてないとも言えます。
そういう自分とちゃんと向き合っていれば、より強固な信念をもって「覚悟」が決まっただろうし、あるいはエンポリオに負けることはなかったかもしれないとさえ思います。

 

その人の本質が表れるスタンド

出典を忘れてしまったのでさだかではないのですが、荒木先生はキャラをつくるときにスタンドから考えると仰っていたと思います。それは単にデザイン性や感覚的なものなのかもしれませんが、「スタンド(精神)こそがその人の本質、核となる部分である」からそのようにキャラを作り込んでいくのかなと私は解釈しました。

 

今回は6部の一部の人物だけを考えてみましたが、他の人物や部でもこの考え方でそのひとの精神を読み解いてみるとおもしろいでしょうね。気が向いたら書くかもしれません。
今回はこのへんで。

 

to be continued➛