2019年 3月1日
今日この日、私は結婚することにした。
愛も絆も幻想だった
幼いころの両親の離婚で、家族の絆など所詮紙切れ1枚で千切れるものと悟った。
彼氏ができると私を邪魔者扱いし、結婚の約束を破られると私に泣きつく母の姿を見て、愛など幻想だと諦観した。
殴られたり無視されたり、依存されたり否定されたり…執着という形の愛と絆しか、私のなかのモデルケースはなかった。
正直、今も過去の傷から目をそらせないでいる。
アドラーもフロイトも、私を強くはしたけれど、傷が癒えることはなかったし、愛などないという思いが増した。
「許してあげなきゃ」
「もう忘れなよ」
「つらいことばっかりじゃあなかったやろ?」
「自分が親になったらわかる」
「止まない雨はないよ」
そんな言葉のどれも私の心を冷やしていき、傷をえぐるだけだった。
いつしかそういう言葉を投げかけてくるひとたちのことを、「幸せに育ってきたんやな…」と、別の生き物を見るかのような目で見るようになった。
私は、「愛も絆も幻想だ」と、信じていたかったのかもしれない。
そうしなければ、「私は愛されなかった人間だ」と認めてしまう気がして…それを認めてしまえば、もう立ち上がれない予感がしていた。
幸せ恐怖症
なかなか共感されないのだけれど、結婚以前に恋愛においても
「付き合うとか彼氏彼女とか、関係性の名前なんてどうでもいいじゃあないの」
と思っている。
今ふたりがお互いに好きだと感じてて、一緒にいる。それ以上に何が必要なの、と。
浮気してようが、他に何人好きなひとがいようが、あなたが私を好きでいてくれるなら、どこまでも愛して尽くしていられる。
今になって思えば、それは『幸せ恐怖症』なのだと思う。
ふつうに幸せになることが怖かったのだ。
存分に愛してもらっても、その幸せが失われるのが怖くて、あらかじめ無いものと考える。あえてしんどいほうを選んだりもした。
ぼろぼろになっているほうが安心だった。
幸せを失うより、幸せを遠くから眺めて「あれは手に入らないもの」と諦めて、あらかじめ自分から傷ついておくほうがずっと楽だ。
親との関係でずいぶん傷つき、その傷のせいにして周りに甘えてたくさんのひとを傷つけてきた。
「こんな私には、人並みの幸せなんて手に入らない」
悟ったような顔をして、孤独と安易な快楽に逃げた。
私は、自分を幸せにする努力のできない、ただの臆病者だった。
さようなら、ロメオ
約半年前まで付き合っている彼氏がいた。
わずかな間だったが、一緒に暮らしてみたこともある。
彼が、初めて『結婚』というものを実感をもって考えさせた相手だった。
ここではロメオと呼ぶことにする。
ロメオは、絵に描いたような幸せ家族で育ってきた男だ。
ずっと家族全員で暮らしていた。経済的にも苦労したことがない。
機嫌をとったり愛想を振りまかなくても許される空間は、私にはあまりにも眩しかった。
(それを家庭と呼ぶのだと、初めて肌と心で理解した。)
だから、付き合いが長くなるにつれ、結婚するものと家族全員が考えることは自然なことだった。
ロメオに結婚するつもりがないことを話した。
ロメオはそれでもいいと言ってくれたが、私が耐えられなかった。
ロメオの家族から感じる「結婚するんやろ?」という雰囲気。ロメオが言う「オレらに子どもが生まれたらさあ」という言葉…。
私の心は、それらに耐えられるほど強くなかった。
私はまた逃げた。
ふつうの幸せが怖かった。
" たったそれだけのこと "
ロメオと別れたあと、少ししてからアナスイと出逢った。
(彼をアナスイと呼ぶには少し語弊があるけれど)
正直なところ、初めのころは彼とはほどほどの仲でよかった。
白状すると、『遊び』で十分だった。
ロメオと別れてから、結婚はもちろん、誰かと一緒に住むなんて絶対にないと考えていた。それはもはや決意と言ってもいいくらいに。
けれど、彼とは特に結婚を意識していなかったせいか、とてもラフに過ごせた。
なんとなく、彼は孤独のにおいのするひとだと思う。
それが心地よかったのかもしれない。
ふたりの孤独を混ぜ合わせているときが、一番心穏やかにいられる時間になった。
そのころ、私は新しく就いた仕事に追われていた。「できないやつ」と思われないように残業してなんとか追いつこうと必死だった。
納期前などは泊まり込みで働き、始発で帰宅して昼に出勤する、なんてこともしていた。
もう長時間労働なんてしたくないと思って転職したのに、皮肉なものだ。
病気を抱えてもいたが、そんな状況では当然治るはずもなく、心身ともにぼろぼろになりながら働いた。
命が削られている感覚がしていた。
でも、もうそれでよかった。これで私の人生終わりでいい、と。
そんな私を見て放っておけなくなったらしく、薬の副作用で救急搬送されたとき、東京から大阪までわざわざ来てくれた。
これまで、しんどいめにあっても、緊急入院しても、もう終わりだと絶望しても、親はもちろん、一度もだれも助けになんて来なかった。いつからか「他人とはそういうもの」と思うようになった。「心配してるよ」と言ってもらえるだけでありがたくて、ひとりでなんとか乗り越えられたし、それでよかった。
なのに、彼は来てくれた。
ほんとにこんなひといるんだ、と驚いた。
彼は「心配やから来た、たったそれだけのことやで」と言う。
私にとっては、その「たったそれだけのこと」が、26年つづいた暗闇の荒野に差す光になった。
「結婚に興味なかったけど、今はしてもええと思ってる」
その言葉に、私は何の躊躇いもなく「せやな」と答えていた。
あんなに嫌がっていたはずなのに、彼なら結婚しても大丈夫と思えた。彼が差し伸べてくれた手をとってみたいと思った。
自分の生活のために彼を利用したかっただけじゃあないの?
そんな心の声がする。
たぶん、他人から見ればそうだろう。否定はできない。
でも、彼でなければ結婚まではしなかった。
彼は、私を助けるために動いてくれたひとだから。
I need you.
私のバイブルである『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』という映画のなかにこんなシーンがある。
全人類がひとつの生命体に補完され、ATフィールドを失ったLCLの海のなかで、シンジはレイとカヲルと話す。
カヲル「再びATフィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?」
シンジ「かまわない。でも、僕の心にいる君たちは何?」
レイ「希望なのよ。人は互いにわかりあえるかもしれない、ということの」
カヲル「好き、という言葉とともにね」
シンジ「だけどそれは見せかけなんだ。自分勝手な思いこみなんだ。
ずっと続くはずないんだ。
祈りみたいなものなんだ。
いつかは裏切られるんだ。
僕を、見捨てるんだ。でも僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは、本当だと思うから」
今まさに、シンジの言う「もう一度(他人に)会いたいと思った」という気持ちでいる。
ひとはわかりあえるかもしれない、信じてみてもいいかもしれない、と思えている。
彼と離れるとなったら、今度こそただでは済まない。本当に立ち上がれなくなるだろう。一緒にいることで、「いつかこの幸せが失われるのでは」という恐怖を抱えることになる。ひとりでいるよりつらいと思うときもあるかもしれない。
それでも、それでもいい。
傷ついてもいいから、彼を信じてみたくなったのだ。
古傷も生傷も抱えて、彼と生きてみよう。
そう思えただけで、ここまでぎりぎり踏みとどまってきてよかったと思う。
ありがとう。
もう、ひとりじゃあないのね。
これからは、ふたりで星を見ていきます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
Jolyne