星見る囚人

楽しい世界にむけ脱獄進行中

FFに寄せる自分語り

6部が連載されていた当時、私はアイデンティティクライシスに陥っていた。
縋る相手としての親、仲の良い友達、甘やかしてくれる恋人、従順で親を慕う子ども、ストレス発散のサンドバッグ、金を稼ぐ道具…そういう役割を、周りの大人から絶えず要求されていた。生きていく術を持たなかった子どもの私には、幾度も幾度も自分を切り刻んでそれに応えるしかなかった。

そうしているうちに、「わたし」がいなくなってしまった。

今喋っているのは誰?この体はなんなんだ?頭にずっとモヤがかかってるみたいだ。声が遠くに聞こえる。今話しかけたのか?どの顔を用意すればいい?はい、これね。
そんな調子で、自分のことなのに他人を見てるような、そんな感覚だった。その感覚を感じているのが「わたし」であるかどうかすらわからなくなっていたと思う。


そんな中で、唯一の楽しみだったのが本だ。小説でも漫画でも、教科書や百科事典でさえ貪るように読んでいた。当時はその言葉を理解していなかったが、知的好奇心が刺激されることや思考することの楽しさを感じていた。だから好きだった。

でも、親はそういう私が許せなかったらしい。たぶん、私がかしこぶっていて生意気に感じて腹立たしかったんだろう。
あるとき、学校から帰ると、本棚ごと本がなくなっていた。疑問、怒り、悲しみ。いろんな感情が私のなかを一気に駆け巡った。本棚の跡が残る床に積まれている親の服や鞄が、「お前の知性などこんなものだ」とバカにして笑っているようにさえ感じた。半狂乱になって泣いて詰め寄ったが、当然まともに取り合ってもらえず、泣き止まないせいでうるさいと殴られるだけだった。
家を逃げ出して公園に落ち着いたとき、鞄のなかに先週のジャンプが入っているのを思い出した。「女の子が読むもんじゃない」と禁じられていたので、読み終わった友達にこっそり借りて読んでいたのだ。涙の跡もそのままに、夢中になって読んだ。それが「AWAKEN」だった。


「思い出こそが知性なんだ」。それを読んだ衝撃を表す言葉を、当時の私は持っていなかった。それでも、自分のなかの何かが肯定されたことだけはしっかりと感じ取れた。
そうだ。奪われ踏みにじられ、何もかも失くしたと思ったけど、今まで積み重ねてきた知識と知性は私のなかに確かに残っている。何もなくなっていない。これは私だけの「思い出」なんだ。これからもそれを積み重ねていけるし、その先に辿り着ける場所がある。それをFFが見せてくれた。


それに勇気をもらって、1週間を生き延びた。そして再び会ったFFが見せてくれたのは、「これがあたし」…まさに私が欲しかった結論だった。FFみたいに自分を見つけたい、そう感じるのが「私」。強制されるのでも演じているのでもない、ただひとりの「このわたし」なんだ。
そのときに、いなくなっていた「わたし」が戻ってきたのを感じた。まだまだ微かな感覚でしかなかったが、私は自分の魂の輪郭を自分でつくっていけるのだと信じることができた。いろんな役の私の真ん中にちゃんと「わたし」の席ができたのは、私のなかでは大きな目覚めだった。


「思い出」を重ねて、いつか確信をもって「これがあたし」と言える自分になること。最後の瞬間にも「さよならを言うあたし」でいること。それが私を導く灯台、黄泉の坂から私を呼び戻すベルになった。

「あたしをみて」「これがあたしの魂、あたしの『知性』」…そうだね、まだ歩ける、もう少しそっちへ行ってみるよ。そうやって今日この日まで歩いて来れた。

 

 

アイデンティティの課題は、おおよそ青年期に乗り越えるものだと言われている。あれから少しは大人になって、子どもたちと接する度にたしかにそうなのだろうと私も思う。あるいはそんなことに悩まないひともいるだろう。

だが、私にとってはおそらく一生の課題となる。離人感や彼岸への憧れは依然残っているし、完全に消すことなどもはや無理だとも思っている。

だけど、そういう思いを引きずりながら、それでも少しずつ『知性』を形作っていきたい。他の誰でもない、「このあたし」で。