漫画の実写化ってことで、出来に関してはほとんど期待してませんでしたけど、思ったよりかなりよかったです。
浴びるほどの名声、震えるほどの優越感、奪い取る快感…
渇望していたものを根こそぎ奪っていく快感が、ほの暗くて甘美でたまらない映画でした。
渇望が執念になり、美しさすら感じさせる…
ふたりの女優が役を通して女に成長していく映画として観ると、より楽しめると思います。
※この記事は、映画『累』のネタバレを多分に含みます
- 漫画『累』と実写映画の違い
- 累の闇堕ちにぞくぞくする
- 累のキスが生々しくてグッド
- 映画の劇中劇が累の心を暴き出す
- 累の芝居を憑依に昇華する『劣等感』
- 「私、お前にキスしたよ」
- 『累』は漫画の実写映画というより女優の成長映画
漫画『累』と実写映画の違い
大筋のストーリーや設定は同じでしたが、細かい部分で違いがありました。
- 幼い頃の累はそんなに醜くない
- ストーリーはニナとの入れ替わりのみで、『サロメ』まで(幾や野菊は出てこない)
- 口紅のすり替えはニナ自身が行い、すり替え対策は累自身がした
- 誘自身が透世を監禁していた(与の存在は出てこない)
映画『累』では、徹底して真反対のものを対比して描かれていました。
「醜いだけで、罪ですか / 美しければ、幸せですか」
「劣等感×優越感」
「偽物と本物」
というキャッチコピーからも、相反するふたつのことを対比させようとしているのがわかります。
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累の闇堕ちにぞくぞくする
最初は
「ニナさんが眠ってる間に、なんて…そんな人生を奪うみたいな…」
とか
「私って最低ですよね…」
なんて言っていた累。
でも本当は、止める気なんてさらさらないんですよね。
どんなに言葉ではニナを思いやるようなことや悔やむようなことを言っても、ニナの顔を使い続けている。
心からニナのことを思うなら、続けられるわけなんてないんですよ。
ニナに申し訳なく思っていたとしても、舞台へ立ち光と喝采のシャワーを浴びる快感を手放すことはしない。
ああ、やっぱり累も " 女 " だなあ…。
累のキスが生々しくてグッド
「キスで顔が入れ替わる」という設定上、とにかくキスシーンが多いです。
大半は芳根京子さんと土屋太鳳さんがちゅっちゅしてるだけのおいしい百合なんですが
なかでも最も生々しかったのは、関ジャニ∞の横山くん演じる演出家・烏合(うごう)と累のキスシーン。
舞台のキスシーンができないと悩んでひとり残って稽古をする累
烏合:「教えてやろうか」
ニナの顔の累に小さくキスをする
累:「演技指導…、ですか?」
期待に潤んだ瞳で見上げる累に、烏合は短く答える
烏合:「ちがうよ」
そうしてついばむようなキスからむさぼるようになっていくんですが…
これがもう生々しいのなんのって…
グッド、いい感じだぜ。
言わずとも惹かれあってるのがわかってるときのキスって、どうしてあんなに甘美なんでしょうね。
ふたりのキスを見てると体の芯から煮え立つようでした。
映画の劇中劇が累の心を暴き出す
演劇の話だから、映画のなかでは当然劇をしているんですよね。
その劇のなかでのセリフが、登場人物たちの心情をよく表していて、観ている私たちの心に突き刺さります。
前半の『かもめ』のニーナのセリフは、美しい顔を手に入れて才能を思いっきり花開かせられる累自身の喜びに重なっていました。
「女優…そう、私は女優!」
他人の夢を踏みつけていることに気づかないまま喜びに酔う姿の、なんと無邪気なこと…。
うんざりするほどの無邪気さで、喜びを噛み締めていく…
演技であれをやっているとしたら、土屋太鳳はとんでもない役者だと思います。
土屋太鳳と芳根京子いう役者を
— Jolyne@ジョジョブロガー (@Jolyne40536) 2018年9月8日
私は見くびっていた
あんなにも、あんなにも…
" 女 " だったとは………
もうひとつの劇中劇、繰り返し出てくるサロメのセリフ。
『累』のテーマとなるセリフでした。
「お前の美しさを飲み干してしまいたい」
「 どんな果実でもどんな酒でも、この渇きは癒されぬ」
「お前の体に飢えているのだ」
まさに累の心の底の欲望そのもののセリフですよね。
ちなみに、羽生田が見ていた舞台の映像で透世もこのセリフを言っていました。
羽生田に自分の顔を鏡で見せつけられて、累は自分のなかの『美への欲望』『奪い取ってしまいたいと思っている自分』を自覚します。
劇中で、『奪いたい』という欲望は母の姿をして何度も累の前に現れていました。
そのたびに累は振り払ってきたけれど、最後には母をも超えて「奪い取ることそのもの」にまでも 歓喜を覚え始めている…。
渇望し、必死に求める累のそのすさまじい執念が、いっそ美しいくらいでした。
累の芝居を憑依に昇華する『劣等感』
作中で累の演技の才能について何度も絶賛されています。
なぜ、累はあんなにも演技の才能にあふれているのでしょうか。
大女優・透世の娘だから?生まれつき?
いや、違うでしょう。
私が思うに、演技力とは「どれだけ自我を捨て、" そのひと " になれるか」にかかっています。
自分のことが大嫌いで他のだれかになりたがっている人間ほど、役自身になりやすいんです。
俗に言う、「憑依型」「カメレオン俳優」と言われる彼らも心の底では『他の何者か』になりたがっているんじゃあないかな。
劇中でも、羽生田は累の演技についてこう言っていました。
あいつはいつも自分以外の何者かになりたがってる
役に対する執念が、舞台をまるで本物のように見せる
圧倒的な劣等感を常に感じているからこそ、累は美しく素敵な役でいることに執着するのでしょう。
演じるのではなく、もはや " そのひと " になる…そんな執念が感じられました。
終盤、ニナともつれあって屋上から落ちて羽生田に
「おい、累!」
と呼びかけられた累は、何のためらいもなくニナにキスをして顔を奪って言います。
違うわ。
私は、 " 丹沢ニナ " よ。
作り上げた " 丹沢ニナ " という女優が、累のなかでは『本当の自分』になっているんだと感じたシーンでした。
芳根京子さんがきれいすぎて残念
今までその醜さから虐げられ疎まれてきた累だからこそ、劣等感ゆえの憑依する芝居ができるんですよね。
その意味では、映画の累はきれいすぎるのが残念やなあって思っちゃいました。
「教えてあげるわ、劣等感ってやつを!」
っていう累のセリフがあるんですが、顔に傷のメイクを入れてても芳根さんの顔がきれいすぎて、正直ちょっと説得力に欠ける気がしました。
もっと思いきり病んでるメイクにしても良かったのになあ。
でも、累でよく描かれるあの『地の底から睨み上げるような目』の演技は良かったです!
恨みと嫉妬でいっぱいで、まさに「睨み上げる」って感じでした。
「私、お前にキスしたよ」
ラストのサロメの舞台上。
舞台に立つニナの顔と、内面の累が交錯していきます。
ヨカナーンの首がニナの顔になり、累の顔でニナの生首にキスをして
「私、お前にキスしたよ」
と言うんです。
奪い取る快感を、かみしめるように。
1回目はサロメ(役)として、
2回目は丹沢ニナ(役者)として、
最後は累(女)として…
だんだんと狂気が増していくふたりの表情に、ぞくぞくしました。
欲望と歓喜に濡れる瞳が、こわいくらい美しくて…。
『累』は漫画の実写映画というより女優の成長映画
お嬢ちゃんだと思っていたふたりが、思いっきり女の姿を見せてくれた映画でした。
「マンガの実写かあ…」と敬遠していましたけど、映画独自の世界観があって見応えがあります。
ぜひ劇場でご覧になってみてくださいね。
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to be continued➸