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【ネタバレ有り】『天気の子』感想ー新海映画から "行間" が消えた【超私感】

『秒速』はもちろん、『星を追う子ども』、『言の葉の庭』などをずっと観てきて、新海誠の描くあの世界観や演出が大好きになりました。

 

そして『天気の子』。
観たばかりの率直な感想は、「きれいだけど、行間がない」です。

 

 

今回この『天気の子』を観て、『君の名は』以来感じていた「なんか変わっちゃったな」という感じの正体を、感想とともに紐解いてみようと思います。

 

tenkinoko.com

 

最初に申し上げておきますが、これは新海監督へのdisりでもなく、私というフィルターを通して観た作品に対するただの個人の感想です。

監督をはじめとする作品製作に関わる全てのひとに、敬意と尊敬を感じています。彼らの努力を踏みにじるような意図は一切ありません。あくまで、作品のストーリー等についての考えだけです。

 

 

『天気の子』の見どころは「映像美」と「音楽」

天気の子

『天気の子』公式サイト(https://tenkinoko.com/)より引用

『君の名は』でも散々言われてきたことですけど、本当に息を呑むほど、涙が出そうになるほど絵が美しいです。

雨粒一つひとつまで、信じられないほど丁寧に描かれています。空の上の光景や、日の光、エンジェルラダーなど、本当に神々しかった…。

圧倒的な映像美は、『天気の子』における最大の見どころです。

 

もうひとつ、「音楽」も『天気の子』における大切な要素。

『君の名は』につづき、劇中歌のほとんどはRADWIMPSでした。これがまた泣かせにきてるんですよ、洋次郎が!
CMでも流れてますが、「愛にできることはまだあるかい」の声がずるいくらい切ないんです。「君と書いて愛と読むなんて嘘つきだ」と言っていたあの洋次郎が…と思うと、ほんと…胸がいっぱいになります。

曲自体ももちろん良いんですけど、絵とのタイミングが神がかり的に合ってるのも大きな見どころ。一瞬の無音の後に音楽が始まったときは、それこそ雲間が一気に晴れていくような感じでした!

 

 

※ここからは、がっつり私感まみれのネタバレを含んだ話をしていきます。
ご了承ください。

 

 

『天気の子』の個人的がっかりポイント

映像と音楽が素晴らしい作品なんですが、今ひとつ物足りないというかしっくりこないというか、そんな印象を受けました。

「ちょっとなあ…」と思ったポイントは、「キャラクターの性格と行動の不一致」と「行間の無い演出」です。
私の個人的な基準での考えですので、「なに言ってんだこいつ」と感じた方はお手数ですがそっ閉じしていただければと思います。

 

キャラクターの性格と行動が一致していない感じがする

物語序盤から見せてきたキャラの性格を考えると、そんなことはしない・言わないだろうということを平気で行っていることに強い違和感を感じました。

 

ヒロイン「ヒナ」の場合

この子の性格と行動が、最も合っていないように感じました。

序盤では、家出してファストフード店に入り浸る主人公ホダカにハンバーガーをおごってあげるなど、優しさが全面に出ていました。また、あるシーンではこんなセリフもあります。

ヒナ「銃をひとに向けるなんて…死んでたかもしれないのよ!? 気持ち悪い!最悪!」

 このような描写から考えると、ヒナは「面倒見がよく、倫理観が強い。弱っているものを放っておけない優しい性格」であると読み取れます。
なのに、後半では弟のナギと一緒にホダカと逃げる際に、警察を振り切るためにトラックに雷を落とし、その後とくに罪悪感を抱く様子もなく、3人でホテルではしゃいでごはんを食べたりカラオケを楽しんだりしているのです。

 

…なんか、違和感ありません?

え、ヒナなんにも気になんないの? 思い出しすらしないの?
と思っちゃいました。

ヒナの性格から考えると、ホテルについて落ち着いてから罪悪感にかられたり、怪我人が出なかったかどうかを気にかけたりしそうですが…。

あの雷がヒナの意図するものではなかったとしても、気にもかけないのは性格的に不自然です。

 

また、もともとヒナが「自分(を含めた身内)のためなら手段は選ばない」というような性格だったとしたら、冒頭でホダカにハンバーガーをおごる理由がなくなってしまいます。

いずれにせよ、ヒナの性格と行動が合っていないなと感じました。

 

また、ヒナの弟のナギに関しても同じことが言えます。

 

「ヒナ」の弟、「ナギ」の場合

ナギはませた小学生で女の子にモテており、ホダカにも恋愛のアドバイスをするほど。姉思いでもあり、児童相談所の職員から逃げ出すときには、「姉ちゃんがいればどこでもいいよ!」とも言っています。

ホダカが一緒に逃げようと言ったとき、ナギは顔をほころばせていました。また、逃亡先のホテルでは、自分からホダカに「一緒にお風呂に入ろう」と誘ったりホダカとカラオケで歌って踊ったりもしています。

また、ヒナに好意を抱いているホダカに、「姉ちゃんに青春ぽいことさせてあげたい」と言って拳を交わして応援するシーンもありました。

 

これらのことから、ホダカに対して友だちのような感情を抱いているのだろうと推察できますよね。

 

なのに、ヒナが人柱となって消えたとき、ナギはホダカに向かってこう言っているのです。

ナギ「姉ちゃんを返せ! お前のせいだろ!」

いくらませているとは言え、大好きなたった1人の家族を失ったやりきれない怒り・悲しみで動揺し、ぼろぼろ泣くことくらいナギにも当然あるでしょう。
でも、あそこまで好意を抱いていた相手に、事情もわからないままあんなことを言うとはどうも思えられないのです。

たとえば、

「早く追いかけろ!」

とかなら納得がいくんですが…。あなたはどう感じますか?

 

まだまだあるんですが、まあこんな感じで「キャラの性格と行動あってなくない?」と思うところが多かったです。

それと合わせて、彼らのバックボーンの描写が少なすぎたのもあって、キャラたちが「そこにいる」感じが全然しませんでした。みんなストーリーの筋書き通りに動いてるような感じ。

 

私は、「キャラが勝手に動いて出来上がっている作品」が好きなので、『天気の子』のこの不一致には特にがっかりしていまいました。

 

" 行間 " がない

今回の『天気の子』では、これまでの新海映画のセルフオマージュがいくつか登場しました。
なかでも最も想起されたのが、『言の葉の庭』です。

雨、非常階段、都会の喧騒、殴られた頬、走る少年、雲の切れ間から差す光…それらが描かれるたび、あの作品を思い出しました。

それだけに、『言の葉の庭』で表現されたあの美しい行間が、『天気の子』にはないのが浮き彫りになったとも感じたのです。

 

全体的に、『天気の子』はセリフが多すぎると感じました。
キャラが動きよりもセリフで感情を表してしまっている、という感じ。野暮なセリフが多いと感じました。

『君の名は』も同様です。

 

「アニメだからできる表現」をしてほしいな、と私は思ってしまいます。

心情を詳しく表現したいなら小説で地の文に書けば良いし、絵と動きで表現することこそアニメ最大の魅力だと思うのです。

「キャラの動きで心情を表現する」というのが最も活かされているのが、ジブリですね。どの作品を観ても、徹底してキャラの所作全てに意志を感じ、「何を感じ、考えているのか」セリフで言わなくてもちゃんとわかります。その表現によって、キャラが「そこにいる」感じがするんです。

 

ちなみに、ジョジョ第5部『黄金の風』のアニメでも、「動きによるキャラの内面表現」が使われています。まさに、説明セリフがなくとも「そこにいて、生きて思考している」と感じさせる表現です。

 

「じゃあジブリ観てろ」って声が聞こえてきそうですが、『言の葉の庭』まではこの「無駄なセリフは言わず、動きで心情を表現する」ことができてたんですよ。なのに、『君の名は』も『天気の子』もできてない。

あの美しく繊細な行間が、消えてしまったんです。

 

『言の葉の庭』と『天気の子』で、似たシーンの比較をしてみましょう。

2つとも「主人公が女性の胸元に目を奪われる」というシーンがあります。それぞれをト書きで書いてみますね。

 

まずは『天気の子』。

ケイスケの事務所。

ホダカ「電話した森嶋ですー…須賀さーん?」

事務所の中へ進んでいくホダカ。ソファで横になって眠っているナツナを発見。ホダカ、露出しているナツナの胸を凝視する。

ナツナ「ん…おはよ」

ホダカ「うわあ?!」

ナツナ、起き上がって伸びをする。たじろぐホダカ。

ナツナ「ねえ…今おっぱい見てたでしょ」

にやりと笑うナツナ。ホダカ、顔を真っ赤にして視線をそらす。

ホダカ「み、見てませんっ!」

ナツナ「見、て、たー!」

新海監督の性癖が作品に描かれていること自体は、作家性として有りだと思います。

が、このやりとり…別にセリフで言う必要がないんですよね。
ナツナがにやっとして、ホダカが顔を赤らめて視線をそらせば、私たちにはもう十分伝わるわけです。

セリフで言ってしまっていることで、このときホダカが感じたドキドキが嘘っぽくなっちゃっている感じがします。本気でドキドキしていたなら、もっとごまかす行動をとると思いますし、バレないように見ているほうがあの年齢の男の子らしいでしょう。

 

一方『言の葉の庭』では以下のように描かれています。

公園。藤棚の下。

缶ビールを飲むユキノ。上下する喉元をしずくが伝い、大きく空いた襟口から胸へ滑り落ちていく。(タカオの視点)

ユキノ、缶を口から離し、タカオへ視線を向ける。タカオ、すぐに視線を手元の木靴に戻す。ユキノ、かすかに微笑む。

 ここまでセリフは全く交わされていません。
しかし、彼らが何を思っているか私たちは読み取ることができます。

これが、私の言う " 行間 " です。

 

また、『天気の子』で、ホダカとヒナが花火を眺めているシーンも「今までならこういうとこで行間あったのに…」と思わずにはいられませんでした。

「晴れ女の仕事をしてよかった」「いろんなひとの笑顔が見られて」「生きる意味を見つけた」とかヒナが話しているのですが、めっちゃ野暮じゃあないですか?

もうここは、「きれいだね」「うん」くらいで、視線も合わさず指先が少し触れて、それから手をつないでいれば十分だっただろうに…。

 

『言の葉の庭』と『天気の子』の作品のテーマは、もちろん違います。
その違いから表現も変わるということを考慮しても、『天気の子』は野暮なセリフが多く、新海映画の最大の魅力であった " 行間 " が失われていると感じました

 

今までの新海映画だと、そういう表現の仕方を選んでいたんじゃあないかなあと思うので、『天気の子』の野暮な説明セリフにはがっかりしてしまいました。

 

『天気の子』のグッときたポイント

ここまで不満ばかり書き連ねてきましたが、ストーリーとしては『君の名は』よりも好きな展開だったし、好きな映画のひとつになりました。

 

単純なハッピーエンドじゃあない

ご都合主義で甘やかさず、自らの選択の結果としての現実を目の当たりにしている結末は「そうそうこれだよ!これが新海映画だよ!」って感じ。

 

あんなにこじらせた性格の作家なら、爽やかハッピーエンドなんて描いてないで、性癖全開の突き詰めまくった作品をこそ作ってほしい。というのが、私の個人的なクリエイター論です笑

そういう意味では、『天気の子』の結末は理想的でした。

 

選択の意志とエゴがしっかりと描かれている

「世界の平穏よりも好きな子を選び、そのせいで実際に世界が悪い意味で変化する」のがかなり良かったです。

こういう展開だと「世界も救うし好きな子も救う」となりがち。
でも『天気の子』では、はっきりと「世界が狂ってしまってもいい」という意志がむき出しになっています。
新劇エヴァ『破』で、シンジが「世界がどうなったっていい」と言っていたのを思い出します。

 

この身勝手さが恋のエゴなんですよね。きれいな感情だけじゃあない。
視野が極限まで狭くなって、自分と好きな子だけが大事で…。このエゴイズムなしの恋愛は嘘だと、私は思います。

しかも、選択の結果として東京は雨に沈んでしまい、それを本人も目の当たりにしています。「自分のせいで世界が変わってしまった」ということを、ちゃんと目にしているんです。そして、社会的制裁を受け、真正面から「自惚れるな」とも言われる。

世界より好きな子を選んだことに対する、まっとうな責任でしょう。

 

『天気の子』では、ホダカがちゃんと意志を持って選択しているし、気圧されるほどエゴまみれだし、選択の責任も取らされている。
ストーリーとしては、納得感のある終わり方でした。

 

 

整合性は微妙だし、行間は消えてるし…といろいろ不満はあります。でも題材もストーリーも良かったと思います。
結末を見て、『君の名は』で感じたモヤが少し晴れて、「あの好きだった新海監督が戻ってき始めたかも」と思えました。それだけで、劇場に行った甲斐があるというものです。

 

ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。
次はあなたの感想を、ぜひ聞かせてください。